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物部氏についての考察 2「野見宿禰 考」
物部氏についての考察 1
謎の物部氏 2012 Jan.18
平成も24年辰年を迎えた。わたしは巳年生まれなのでいよいよ来年還暦である。なかなか書物が頭に入らないなどと弱音を吐いては諸先輩がたに申し訳がない。さて、邪馬台国吉備説を唱えだして以来ますますその確信を深めてきたが、今回は謎の物部氏についてしばらく追いかけてきたので少しまとめてみたい。
物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(たけるがみね)(現・大阪府交野市か?)にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(饒速日命)を祖先と伝えられる氏族である。石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、etc.は物部氏の氏神であり、また大和朝廷の武器庫であった。とされているというところが普通の説明だろうか。しかし石上神宮でおこなわれる鎮魂祭(みたまふり)では「ひふみよいむなやこと」「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と唱えられる。これは物部の呪術なのだそうだが、これが宮中儀式に引き継がれているということだ。物部の”物(もの)”といえば”もののけ”も”もの”と理解するのが最も素直だと思う、だとすれば古代倭国における祭祀の担当部族と考えるのが妥当だ。
写真は物部の郷とも言うべき天理の布留遺跡の上に立つ天理参考館で、右におそろしく暗いイメージでたっているのは私です。写っているのはここで発見された埴輪などの祭祀土器で当時(古墳時代)の場面を再現している。つまり物部が埴輪を使って祭祀を執り行っていたというわけだ。となれば物部と吉備特殊器台の関係に思いをいたすのは当然の成り行きだろう。
吉備特殊器台が発見された場所(エリア)といえば「吉備・出雲・纏向」だが、それ以外にとても重要な場所で発見されている、それは河内(八尾)である。この八尾の地も物部の本拠地とされている。その八尾市域から特殊器台が東郷遺跡(向木見型)、萱振遺跡〔かやふり〕・小阪合〔こざかあい〕遺跡から(宮山型)と出土している。河内平野(特に八尾市域)は当時、北に河内湖、 それに注ぐ「小阪合分流路」「久宝寺分流路」と呼ばれる大河川があり、この河川の上流域は大和盆地南東部の巻向遺跡に繋がっており、河内平野では、これまでに特殊器台形埴輪を用いた古墳が無いため、これらの遺物は大和に運ぶ際に破損したため河内に残されたものと理解されている。
つまり物部氏が特殊器台を携えて吉備〜河内〜纏向と移動してきたと見えるがいかがだろうか?歴史著作家の関裕二氏がその著作『物部氏の正体』で物部=吉備であると結論づけているが、それもこれも論拠の最大要点はこの部分だ。
さて左の写真は卑弥呼の時代の土器である。左から「吉備型甕」「庄内式土器」「布留式土器」で主な生産地は特殊器台と同じ”吉備〜河内〜天理”と考えてよい。これらは生活用具で調理に使用されたと思われるがこの特徴がその薄さで当時のハイテクであり、その技術が吉備→河内→天理と伝搬していった。さらにそれらは全国にひろがっていき各地で発見されることとなる。もちろん土器はどこでもつくられていたのだろうからそんな単純な関係ではないというご意見もあろうかとは思うが「へらけずり」による薄作りという点では技術が伝わったと考える。
古代において土器制作を業とする人々を土師部という、この弥生末期に部民制度はなかったと思うがその先鞭を着けた職能集団が存在しただろう。垂仁天皇紀に登場する横綱の元祖「野見宿禰」が埴輪の発案者で土師部の祖とされている。この人が出雲の人で出雲では埴輪の根源は見当たらず、また時代もすこしずれているということで「土師部の祖」というのは何かのまちがいだと考えられている。しかし私は彼こそが物部だと思っている、がその考察は事項に譲ることにしよう。
中国山地によすみを訪ねる
四隅突出型弥生墳丘墓 行脚
朝はやくに岡山を出発して福山、世羅を経由し三次に到着した。広島県三次市には「三次風土記の丘公園」という古墳群に博物館が併設された施設がある。ここ三次では弥生時代出雲から北陸にかけて現れる「四隅突出型弥生墳丘墓」の最初期型として陣山遺跡などが発掘されている。そのうちの矢谷(やだに)遺跡は三次市の南側の標高230mの丘陵にあり、1977~1978年度の三次工業団地造成事業に伴う発掘調査で発見された。
形は、四隅突出型墳丘墓を二つ合体したような特異な物である。周囲に溝をめぐらせて際立たせたもので、全長18.5m、溝の部分まで含めると22.6mの規模を持ち、中国山地の弥生時代後期の墳丘墓としては最大規模を誇っているのだが、特筆すべきはかなり大型の吉備特殊器台がでているのだ。残念ながら、現場をみることができなかったが、整備された古墳公園を満喫した後、次の目的地へと向かった。するとすぐ近くに変わった名前の神社を発見した。「廻神神社(艮神社)」というのだが、なんと御祭神が吉備津彦であった、ここらも古代吉備国のエリアであることを思い出した。つまり特殊器台がでてきて当然ということである!?参拝&記念撮影の後一路、出雲市一の谷にある最大のよすみである西谷墳丘墓のある「弥生の森博物館」へと向かった。
最後は「西谷3号墳」です。出雲商業のすぐ裏で野球部の声がします。
探検!古代須恵器窯跡を求めて
古代須恵器窯跡を求めて美和神社を出発! 2011 Feb.20
須恵器とは5世紀前半(古墳時代)に朝鮮半島南東部の伽耶地方から流入した新技術の陶器でそれまでの土師器から飛躍的に性能を進化させた。定説としては、大阪南部の陶邑(すえむら)窯跡群が、5世紀中頃初期最大のもので、6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られ、この岡山長船の須恵地区の窯跡群はその一つであると考えらる。しかし現在はそれより早い時期と思われる窯跡として北部九州(朝倉窯跡群etc.)、岡山県奥ケ谷窯跡、香川県三郎池西岸窯跡、大阪府吹田32号窯跡などが発見され、5世紀前半同時並行的に技術集団の流入があったと考えられている。現代の備前焼の元である。
備前焼作家、橋本勘介氏をガイド役にMasters Member A&A氏と県立大セラミッククラスの女子大生を加えて計7名、長船は西須恵広高山の頂上にある美和神社に到着、早速お参りをした。御祭神は大物主命で牛窓の語源ともいわれるエピソード(住吉大神の牛転び)の主人公でもある神功皇后が潮待ちのときに誤って海に転落した愛馬白鷹が犀崎(才崎)に上陸し、北に向かって走り須恵の山にたどり着き息絶えた、故にこの宮山を白鷹山(広高山のこと)と名付けたという伝説の残るお宮である。すばらしい展望の神社前駐車場から100mほど道を戻ると、さっそく本来のご神体である磐座があり一同お参り、すぐそばに三角点があるのでここが頂上ということらしい。
さらに下って行くとアスファルト道路に交差する形で古道(西須恵〜尻海)がある。尻海方面に山道を下りてゆくとすぐにサザラシ一号墳への分岐、ここを古墳にも行かず南へ山を下っていく。しばらく行き谷筋になると沢が現る、石を積んだ人工物が沢の堰のような形で水がたまるようになっていた。そして確か三つ目だったと思うがさらにしっかりした石積みがあり、少しではあるが水が溜まっている、これがどうやら「美和ノ井」であるらしい。
美和とは神の意味であるから、この水源は「神の泉」ということである。現在は多くの雑木が茂ってはいるが、古代においてはきっときれいに整備されていて、やや緩やかなV字の傾斜に挟まれたこの沢で重要な神事が行われていたのだと想像する。
この沢の周りの傾斜地に複数の窯跡が存在するらしい、すでに確信があるのだろう勘介氏がすこし沢の中を進むとついに「ありました!」と土器(かわらけ)を一枚われわれに見せてくれた。みんな勇んでそこらにある枝のほどよいサイズのものをみつけ、ほとんど流れのない湿った沢の泥と石をほじくりかえした、するとさっそくA氏が次のかけらを発見した。どうやら窯のそばに捨てられた土器の破片が千年の時を越えて流されて沢のあたりにあるのだ。しかし、そんなに次々と発見されるわけでもなく、やっとみつかった物も黒く染まってしまっている。
我々が沢と格闘している間に勘介氏は傾斜を登って上の方を探していた。「こっちにきてくださ〜い」という声に大きな期待を胸に抱いて道なき道を薮こぎしながら十数メートル、全員で登った。そこには探すまでもなく多くの土器の破片が散乱していた、まさしく土器捨て場であった。形の残っているものはない、ことごとく割られた破片である、つまり捨てるために割るということらしい。捨て場というのは窯のそばだそうなので近くに窯跡があるかもしれない、みんなでそこらをさがしてみた。するとすこし登ったところに右写真の遺構を発見、どうやら窯の後部ということらしい。ここのあたりで皆最後?のかけら探しに望んだが、私はこの上がやけに傾斜が楽になって木もまばらなのが気になって上へ上へと登っていった。後ろをみると皆の姿は見えなくなり道に迷いそうな感じだが、先がますます歩き易くなってきたので止まる気になれず、あとすこしあとすこしと歩を進める。すると見覚えのある巨大な石の姿が見えてきた。なんとそれは前回の訪問のときにきた「サザラシ一号墳」の石室であった、これで位置関係がはっきりした。
このあとすこし沢を下ってみたが、やや大きめの石堤のところで道が途絶えたので今日のところはここまでということにして、スーパーのレジ袋二つに入った「かわらけ」を戦利品に帰路についた。勘介氏のお宅にもどり奥様に煎れていただいたお茶を頂戴して、かわらけを皆で分配した、学生さんは資料になるだろうとほとんどをあげたけど荷物になったっだろうか?そして登り窯などを見学させていただき本日の探検隊は楽しく解散した。
大避神社(おおさけ) 謎の秦氏ゆかりの地を訪ねる
「兜率天の巡礼」の舞台、赤穂大避神社は秦河勝を祀る 2011 Jan.18
司馬遼太郎のデビュー作「ペルシャの幻術師」表題の短編集に収録された「兜率天の巡礼」という話には秦氏に関して大変興味深い内容が含まれている。以下、磯貝勝太郎氏の解説の一部を引用する。
昭和24年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会い、その紳士は司馬の事を知らずに「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。当時、ザビエルの日本上陸400周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。
司馬氏が影響を受けたのは仏教史学者で大親日家の英国のエリザベス・ゴードン夫人が唱えた「景教=秦氏」論だろう。彼女は、高野山(真言宗)と景教のつながりを信じて1911年に中国西安の景教碑の複製を寄贈し、その横にゴードン夫人の墓がある。京都の太秦には秦河勝建立とされる広隆寺が秦氏の氏寺とされ、その境内には大酒神社があった(現在は近所)。ゴードン夫人によればこの謎の技術集団が最初に乗り込んだ本貫地がこの赤穂市坂越でありその印としてこの大避神社が現存するということである。上写真の下部に見える額は元宮内庁式部職楽部岡氏の奉納で樂祖秦河勝の後裔と自称されているのが興味深い。(楽部とは、宮中の雅楽の演奏・演舞を担当、楽部の首席楽長、楽長、楽長補、楽師は重要無形文化財保持者に認定される。かつては、東儀氏、上氏、園氏等の世襲職であった。)
景教と秦氏の考察は次項に譲るとして、この山の中腹に妙見寺という寺があり、そこになぜか、岡山にゆかりの深い児島高徳の墓所があった。南北朝時代の軍記「太平記」に登場する児島の林出身の武将で岡山では「院庄の忠義桜」のエピソードでおなじみの人である。しかし「太平記」しか記載がないとされて児島高徳の実在性を疑う議論もあるという謎の人物である。由緒によれば熊山の戦いで深手を負った高徳はここ坂越に軍を構えていた「官軍」に身をよせて結局ここで亡くなったということである。
法善寺の浪花割烹 喜川
大阪の名店「喜川」にいってみた! 2010 Dec.21
20日の夜、岡山駅のぞみに乗り大阪はキタのライブハウスMister Kellyへ向かった、「Atsuko Nishida Jazz Live」である。7時から11時すぎまで都会の夜をひさびさに過ごし、中之島のHOTELに宿をとった。
翌日はゆっくりとチェックアウトして、ミナミゆきの地下鉄に乗り込む。今回の大阪のもうひとつの目的は浪花の名店「喜川」訪問である。昼食の予約の時間までしばらくあるので、道具屋筋やら黒門市場などをぶらぶらしミニ観光で過ごす。驚いたことに観光客らしい人の7〜8割が中国人であった、確かめてはいないが見ればわかる。
時間も来たので、道頓堀から少し戻って法善寺横町に入りすぐの「大阪割烹 喜川」の暖簾をくぐる、やや和洋折衷モダンな戸の前に立ったその瞬間、すっとそれが開いて内側から店の女性が現れた。予約の旨を告げると「お待ちしてました、どぉ〜ぞ」と案内される、3階建ての1階がカウンターで12席、奥から2番目ほどの席にコートを預けて座った。
30年ほど前、大阪のグルマンな友人が「そりゃあ今はキガワやで!」と熱く語っていたことを思いだす。「喜川」は上野修三氏が大阪の新しい割烹を目指し店を構えてから約40年、今は息子の修氏に店を任せて、執筆活動やら指導に専念しているという。さっそく白磁杯に入ったスープ?が運ばれ、仲居の女性が適度な口調、そうほんとに適切な距離感と温度でもってその料理の説明をしてくれた。写真はその後運ばれた「今日の昼食コース」の総てで、それぞれによく仕事が施され、でしゃばったものが何もないバランスのとれた食事であった。
通人によれば、他の名店との比較で「和洋折衷メニュー」に不満のむきもあるようだが、僕は経験もなくそこはわからない。しかし、この店に通底するのは「いごごちのよさ」を演出する気配りにあると感じる。暫くして主人の修氏らしき人が現れ挨拶にこられた。そののち板場に入り、板さんになにやら指示をする、その雰囲気がいかにも柔らかいのだ。よく「内輪には厳しくしております!」的な空気を醸す主人はいるが、ここは違う。他のお客さんもそれぞれで、家族、夫婦、奥様グループ、そして男性一人のグルマンと色々だったがみんな楽しそうであった。なにしろこんだけ写真を撮る事にほとんど躊躇を覚えない空気感である、「どうぞ、お好きにお過ごしください」ということなのだ。
もし一つだけ希望を述べるなら、道具類(掛け物や陶芸)に見せ場があればと思うが、これも「あまりでしゃばらず」という風情ともいえる。そしてお値段もお昼のコースであることもあるが、これだけのものを頂いたうえではいかにもリーズナブルだと思う。目の前では、夜の仕込みだろうか、60cm超の巨大な甘鯛が丁寧に処理されていた。家内が「あれ、”ぐじ”じゃない?」という、僕はこんなでかくて白っぽい甘鯛などみたことがなかったので「ちがうだろ!」と答える。我慢しきれず尋ねると「ぐじの白で最高級物」という答え、ぐじに「白、赤、黄」とあり白が最高ということも初めて知った。バランスの昼コースに対して夜メニューには「ダイナミズム」が加わるのだと思う、店を出て藤島桓夫でおなじみの「お不動さん」に水を掛けながら又ここに来られるように祈った。
思い立ったが吉日! 「韓竃神社」へ爆走
出雲「韓竃(からかま)神社」は今人気の秘境スポット 2010 Dec.14
昨夜の天気予報をみて急遽「出雲」を訪ねる気になった。岡山を10時に出て約200kmの行程だが昨今の高速料金割引のおかげで気軽に動ける。12時半、昼飯に松江にたちより観光名店「八雲庵」にて「かもなんばん」をいただいた、味もしっかり、駐車場、庭付きのよい店である。ここから宍道湖の北岸を一路「横縦断」して「十六島(ウップルイ)」方面へ向かう。まずは「十六島(ウップルイ)」変わった名である、アイヌ語?朝鮮語?など諸説あるようだがはっきりとしない、そこがとてもよい。
十六島湾が現れる 、今日の島根半島は天候不安定で晴れたり雨が降ったりそして風で海には大きな波がたっていた。垂水神社から川沿いを南上するが、この川名が「唐川川」である。なんだそりゃって感じだがそのとおりだから仕方ない。鰐淵小学校を唐川方面へゆくと細い道が次第に高度を上げてゆくが「韓竃神社」へのサイン看板が的確にあるので迷わず駐車場に到着した。
ここから徒歩800mとなっている、林道入口に設置された案内パンフをもらい歩き始める。さっきまで激しく降っていた雨がやみ少し明るくなってきた、てっきり「晴れ」と思っていたので雨具(レインスーツ)もなく、ききしにまさる難所と聞いているので傘も持って行けない。林道は山からの雨を集めておおきな音をたてながら激しく流れる沢に沿って登っている、500mほどで写真の参道入口の鳥居に到着した。
ここから急登がつづくが細いながらもよく整備された石段ばかりなので、濡れていながらも安心して登れた。参道口から高度差で200mくらいだろうか、ついに各メディアで紹介されているこの岩戸が現れた。まあ、100kgくらいの人までだったら楽に通れるとは思うが「岩に体を擦りながら通る」ことは避けられないのできれいな服はやめたほうがよい。
この裂け目を抜けるといよいよ目の前に社が現れる、かなり急な場所にあるため、石組のその境内は極めて狭い、ぎりぎりまでさがってやっと写真に収まった。雨模様のウィークデイでありながら3人の方とであった、やはりかなりの人気である。
案内文などの由緒によれば
鎮座地 出雲市唐川町字後野408番地
祭神 素盞嗚尊
例大祭 十一月三日
出雲国風土記(七三三年)には韓銍社 延喜式神名帳(九二七年)には韓竈神社と記されている。江戸時代には、「智那尾権現(ちおごんげん)」と呼ばれていた。社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされている。即ちこれは祭神の素蓋嗚命が御子神と共に新羅に渡られ我が国に「植林法」を伝えられると共に「鉄器文化」を開拓されたと伝えられていることと、関係があろう。又当社より奥部の北山山系が古くから産銅地帯といわれ金掘り地区の地名や自然銅、野タタラ跡、などが見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。「雲陽誌」(一七一七年)によると、当社は素蓋嗚命を祀るとして古老伝に「素蓋嗚命が乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又 岩船のつづきに周二丈余り高さ六間ほどの丸き立岩ありこれを「帆柱石」という。社への入口は横一尺五寸ばかり高さ八尺ほどの岩穴となっており奥の方まで二間ばかりありこれが社までの通路となっている」と記されている。
「唐川」という地名から素直に考えれば、朝鮮半島に出自を持つ人たちが住んでいたことに疑いはない。岡山市内にも「辛川」「辛香」などが見られるが皆、朝鮮系とか新羅系と考えられる。ここに「素盞嗚尊」が祀られているのは極自然であるが、「素盞嗚尊」信仰が最も色濃いのが吉備であることは留意しておきたい。青銅器の文化圏の中心である「出雲」に銅が出たことに何の違和感もないが、鉄器文化の開拓となれば「韓竃神社」は吉備と出雲が連合した時代の残滓といえるかもしれない。
県北の山を一周?
新庄村の金ヶ谷、朝鍋鷲ヶ山から東西粟倉の鍋ヶ谷、後山まで! 2010 Nov.23~25
祝日の23日は生憎の雨模様、そんな中新庄村の山の駅の前の登山口から金ヶ谷山(かねがたにせん)を目指し登り始めた。岡山国体の登山競技会場として整備されたコースだそうだ。渓流沿いに歩いていくと左右の林が段々畑のようになっている。これは「たたら山内」の跡に違いないだろう。だって地名からして「金ヶ谷」なのだから。車が走行可能な林道が延々と続く、もちろん一般車は入っちゃいけないのだが、道を間違えたかと思いながらやっと登山口の立派な看板をみつける。ここからよく整備された道を1時間ほどがんばると毛無山からの縦走路に飛び出す。そこから右へしばらくがんばると写真の金ヶ谷山頂だが、稜線上の小ピークで展望もあまりない。雨のしょぼ降るなか「特上巻き寿司」で元気をつけた。
縦走路をしだいに下りてゆく、落ち葉がつもって滑りそうだが慎重に進む。すこし開けた場所から次の目的地の朝鍋鷲ヶ山(あさなべわしがせん)頂上までのゆるやかな山容が見えた、あとすこしである。一踏ん張りするとそこに到着した、そしてそこでまったく想像しなかったものに出くわした。
クマじゃない!それはトラックだった。その濃い灰色の大きなトラックはどうやら自衛隊のものである。しかも隊員らしき人物が展望台の下で雨の中なにやら作業をしている。そのすこし華奢な迷彩服の人物は妙齢の女性であった。(ニ度びっくり)訓練中なのだろうということで、彼女と記念撮影することは遠慮して雨中の展望台に上り雲しか見えない事を確認し下りてくると、テントに入ってしまった。ほとんど人の気配がしないのは一人だったのだろうか?まあそんな野営訓練もなかろうが。
さて下りだが、車が上がってくるくらいだから当然林道が続いていた。
登山道はないものかと探すが最後までなかった。実は山頂から三平山方面へしばらく行くと下りの登山道があるらしい、でもそれはかなり遠くに下りるようなので、この林道が今回の正解だった。舗装道路にでて右に下っていくと20分?ほどで野土路トンネル口にでる、そこからしばらくおりていくと出発地の山の駅に無事到着した。
翌々日には懲りずに岡山最高峰への挑戦となった。偶然なのか一昨日の出発地の新庄と今回の西粟倉はどちらも平成の大合併を拒否し独自路線を選択した「村(そん)」である。今日は駒ノ尾から後山への縦走を予定しているのでダルガ峰林道を若杉峠方面から登山口に向かった。
この登山道はよく整備されていて半分くらいは階段がつづく、家内曰く階段のほうがしんどい!約50分で駒ノ尾山頂に到着する、ここも石のベンチや眺望のための整備がよくされている。
さてここから後山まで3.1kmの縦走路で、途中「鍋ヶ谷山」と「舟木山」という二つのピークが丁度約1000mごとにある。そこを休憩ふくめて1時間20分ほどで後山山頂に到着した。ここは兵庫県側からも登山道がありまたの名を「板場見山(いたばみやま)」とも呼ばれる。暫くの休憩のあと車の待つ登山口に向かった。このあたりの山ではよく鹿をみかける、今日もいたるところに鹿のふんがあるのですぐそばにいるはずなのだが、こちらは熊除けの鈴をチャランチャランいわしているので出くわす事は望めない。往復10kmを越える健脚コースであった。
さてここで気になるのは山名である。偶然岡山のはじっこの山頂を巡ったのだがそれが「金ヶ谷、朝鍋、鍋ヶ谷、後山」でいづれも「たたら」に語源を求められる。前ログでも述べたが、岡山中にたたらに関する地名が残っていると改めて感じたしだいである。
金屋子神考察行脚 その弐
金屋子神はたたらの神様
「たたら」とは明治時代に洋式の製鉄法が導入されるまで、古代から江戸時代まで続いた製鉄法のことであることは皆ご存知だと思う。しかし、いったいどこにあるのかが判り難い、が実はこれが中国山地に集中している。つまり材料の山砂鉄が必要で、それが豊富であるとともに、それと同時に燃料になる木材が不可欠だったのだ。wikipediaによると「近世以前の中国山地では踏鞴(たたら)製鉄の為に禿げ山となった地域が珍しくなかった。また原料となる砂鉄の採取(「鉄穴流し」かんなながし)は山間部の渓流を利用して行われた為、流出する土砂によって下流の農業に大きな影響を与えた。この為、鉄山師は操業に先立って流域の農村と環境破壊に対する補償内容を定める契約を交わし、冬のみに実施することとなった。 だが、木を伐採する際は計画的に行っているので、辺りの山すべてを禿山にするわけではない。」となっている。
まあ、そこら中にあるといってよいのだろう。今回はまず、地図上に「金屋子神社」との記載のある越畑を訪ねた。
奥津温泉から東に笠菅峠を越えるとそこが越畑なのだがマピオン地図によれば「金屋子神社」のほかに「三鏡神社」「吉備津宝築神社」がみえる。集落を北に過ぎると家もまばらになり越畑キャンプ場への分かれ道も香々美川に沿って直進して約1~2km右側の林の中に写真の祠がひっそりとある。必ず見過ごすので気をつけて!ここで気になるのは「香々美川(かがみ)」、「三鏡」、「吉備津」そしてなんといっても「越畑」そのものである。時代が同じだとは言えないが、鉄の産地であったとともに鏡の産地だった可能性が高い。そして「古志の秦」なのだ。
さて、峠越えで奥津に戻ると奥津歴史資料館に立ち寄る。書籍棚に郷土史でたたらに係るものがあるのでこれで少し勉強する。さてつぎは富西谷である。このあたりは旧「富村」なのだが昔はずいぶん直接的な名前だなあ「豊かな村だから富村かあ?」と思ったものである。しかし今では出雲大社社家富家との関係だと考えている。此の地には気になる地名が残っている。「鍛冶屋、札場、白賀、そして布施神社」などである。布施神社は古くは三塚(みつか)の壇(だん)の山頂にあり、永享年間(1429〜1440年)に現在地に移され、富ノ荘(現在の富村、奥津町、上斎原村、鏡野町の一部)の総鎮守であったと伝えられている。
そこには三塚壇弥生墳丘墓があり特殊器台も発見されており吉備楯築と出雲西谷の中間結節点だと考えられる。布施臣は安倍臣からの分流で新羅系の鉄関連氏族と考えてよいだろう。そして白賀&白賀川も新羅(しらぎ)の転訛とするのが常識的だ。
ここから7kmほど北西に「鍛冶屋谷たたら遺跡」(のとろ原;のとろ温泉の奥)があり明治まで操業していたというがこの運営者が徳山家(集蔵)である。もちろんここにも「金屋子神社」がある。この地から北に峠をこえると蒜山別所そして新庄に抜ける手前が上徳山で徳山神社があり、徳山家はここの人である。そしてそこにも「白賀&白賀川」が存在する。
この蒜山の白賀から西南へ峠を越えるとそこは野土路で車が何台もならぶ名水で有名なところ、そこの少し南にある谷が「金ケ谷」でその渓流沿いにあきらかな「たたら山内跡」が存在する。そして新庄村に入ってゆく訳である。どうでしょう鉄に関連した地名がいくらでも続く、そして「シラキ」に関係するものがどんどんでてくる。さて最後になるが「新庄」は「しらき→新城→新庄」の転訛だとしたらどうでしょう?とまあ、そこら中にあるといってよい訳である。
天児屋たたら跡から東へ
『鉄山秘書』のなかの「金屋子神祭文」には,おおよそ次のような伝承がある。
(1) 金屋子(カナヤゴ)神の示現 大昔のこと, 播磨国宍相(粟)郡岩鍋という山間の村では大旱(ヒデリ)が続き, 村人は困って山に集まり雨乞いをしたところ, 天から神が示現して大粒の雨を降らせた。 村人がその神の名を聞いたところ, 「わたしは金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)ともいう金屋子神である」と明かす。
そして,村人にタタラによって鉄を作ることを教え,様々な道具を作る技術を人々に授けた。そして,「これから西の方へ行き,鉄を吹き道具を作ることをさらに多くの人々に教えねばならない」と,白鷺に乗って天空高く飛び立った。
(2) 出雲国比田・黒田への飛来 その後, 金屋子神は出雲国に飛来し,能義郡比田の森に降り立ったと言う。西比田の黒田というところの桂の巨木に羽を休めていたところ,安倍の祖-正重という者が犬をあまた引き連れて猟に来ており,白鷺の発する光明を見て正重の犬たちが驚き吠えた。そして,安倍正重はおそるおそる問うた。「あなたは誰か,この地に何をしに来たのか」。すると神は「われは金屋子の神なり,ここに住いして『タタラ』を仕立て,鉄(カネ)を吹く技を始むべし」と告げたという。
(3) 出雲タタラのはじまり 金屋子神のお告げを受けた正重は, 長田兵部朝日長者にことの次第を話し, まず桂の木の脇に金屋子神の宮を立てた。以後正重はこの宮の祭祀を司り, 朝日長者は以後「タタラの村下(ムラゲ)-総指揮」に任ずることとなった。タタラの高殿の建設には,金屋子神の多数の眷属神が手助けする。最初に現れて七十五種もの必要な道具を作ったのは,七十五人の子供の神であったという。
異伝によると,播磨の岩鍋に示現した金屋子神は, ここで「鍋を鋳た」ものの安住すべき山がなく,白鷺とともに西方に飛び去ったとも言われている。とにかくである。その後ここ出雲国の比田では,朝日長者が砂鉄と炭を集めて吹けば,金屋子神の神通力の致すところ「鉄の涌くこと限りなし」ということになった。これが金屋子神によるタタラ製鉄が, 出雲国一帯へ拡大していく端緒となったものである。
金屋子神とはたたら製鉄の神様である、詳しくは上記引用のSource「紙老虎的世界」さんのHPを参考にしていただきたい。たたらの山の民のそばには必ず(多分)金屋子神が祀ってあるのだがその本宮が島根県安来市広瀬町西比田にある金屋子神社である。このそばに金屋子神話民俗館があり訪ねてみた。ひっそりとした山奥に立つコンクリートの民族館では店番の女性が迎えてくれたのだが五月連休なのに、客は一人の男性と我々だけであった。ここに上記の祭文が展示されているが、これによればその昔播磨の岩鍋に始まった製鉄が出雲に伝えられたというわけだ。
金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)という別の名前を持つ金屋子神だが、金山彦は美作一ノ宮「中山神社」の祭神でありまたの名を「南宮」という、岐阜「南宮大社」も祭神は同じ、さらに「吉備津神社」と「諏訪大社」は南宮と呼ばれている。中山神の伝説についても「紙老虎的世界」を参考に読んでみてください。つまり、播磨に始まった製鉄が吉備を経て出雲に至ったわけである。
こうなると播磨の岩鍋を訪ねねばなるまいというわけで、後日、今度は兵庫県千種町の岩野辺にフィールドワークだ。
岡山から湯の郷をぬけて東粟倉、ここまで約2時間30分、岡山県の東北の極地である。後山の麓に向かい日名倉山の峠を越えると兵庫県、下っていくとそこは千種町、そこから数キロ東の集落が目的地の岩野辺(岩鍋)である。残念ながらこの付近には写真の巨大記念碑しかモニュメントはないが、千種町から北7kmほどの西河内に、「たたら学習館」と「天児屋鉄山跡たたら公園」がある。近世まで操業されていたということでその山内と呼ばれる製鉄所の石垣などがきれいに残されている。(右写真はそのジオラマ)ここで生産された天児屋玉鋼が吉備に運ばれ長船の刀になったということらしい。実物は確認できなかったが、もちろんこの山内にも金屋子神は祀られているそうである。
ここから「金屋子神」&「中山神」(同一なのか時代が違うのかが不明だが同一勢力ではあると思う)が吉備の神宿に現れるという話は前ログの「謎の神宿を訪れる!」と紙老虎的世界」さんのHPをご覧いただくとして、次は岡山のたたら跡を訪ねてみよう
そして,村人にタタラによって鉄を作ることを教え,様々な道具を作る技術を人々に授けた。そして,「これから西の方へ行き,鉄を吹き道具を作ることをさらに多くの人々に教えねばならない」と,白鷺に乗って天空高く飛び立った。
土師部の祖 野見宿禰 考 2012 Jan.21
前項ログでわたしは、『相撲の元祖「野見宿禰」は物部氏ではないのか』という私見を記した。このような考え方はNet空間広しといえどもだれもふれていない。つまり「ありえない話」の類いということだろうが少しまとめてみよう。
元祖横綱 野見宿禰
この相撲が行われたとされるのが桜井市の山辺にある穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社に向かうすぐ手前の相撲神社である。なんだか荒れて原っぱのようにもみえるが土俵のあとも薄らみえた。
説明板に「昭和37年10月6日、大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主にニ横綱(大鵬、柏戸)五大関(琴ヶ浜、北葉山、栃ノ海、佐田ノ山、栃光)をはじめ、幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ、この境内のカタケヤシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納された。」と記されている。
手数入り(でずいり)とは横綱土俵入りのこと、オールドファンには懐かしい名前が並んでいるが、ここでのポイントは相撲神社ではなく大兵主神社に奉納したことで、この大兵主とは天のヒボコである。つまり野見宿禰を祭神とする相撲神社に奉納したのではなく天のヒボコに奉納したということだ。そして、左写真に写っている(小さくて読めない!)が野見宿禰は天穂日命の十四世とされている。
埴輪の創始者 野見宿禰
垂仁天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられたとき、身狭の築坂に陵を築き葬った。このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。その後、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。そのとき、野見宿禰は埴土(はにつち)で人や馬を形どった土物(はに)を作り生きた人に替えて陵墓に立てることを献策した。天皇は喜び、野見宿禰に土物を作ることを命じた。野見宿禰は出雲から土部(はじべ)百人を呼んで、土物を作り日葉酢媛命の墓にたてた。その功績により、野見宿禰は土師の職に任じられると同時に、本姓を改めて土部臣と称した。野見宿禰の後裔である土部連が天皇一族の葬儀を司るようになったのは、このためである。(野見宿禰記事引用先:DonPanchoさんHP)
十四代前の祖先 「天穂日命(あめのほひ)」
Wikipediaより引用
さて『出雲国造神賀詞』では天穂日命は子のアメノヒナドリ(別名:建比良鳥命)および剣の神フツヌシとともに地上を平定した、ということだが剣の神”経津主神”(フツヌシ)とは布都御魂で物部と考えてよい。吉田大洋氏著の「謎の出雲帝国」に登場する「語り部の富氏」によれば「吉備勢力(ひぼこ族と物部族の同盟軍)に出雲民族は殲滅された。」と語り、また神魂神社宮司家の「秋上氏」は自らを物部の系譜とし、出雲進駐の前線基地が意宇郷の神魂神社であるとしている。(多分に吉田氏の論も加味されている!?)
【崇神紀の出雲神宝事件】
吉備と物部とが協同的に出雲に関わる事件、日本書紀崇神六十年条の出雲神宝事件にも触れておきたい。大和は矢田部造の武諸隅(たけもろずみ)(矢田部は物部氏)を出雲に遣わして、その神宝の奉献を求める。この時、神宝を管理していた出雲振根(いずもふるね)は筑紫に出掛けて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が神宝を奉献する。筑紫から帰ってこれを知った出雲振根は怒って飯入根を殺す。飯入根の弟や子らが、このことを大和に訴えたので、大和は吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を派遣して出雲振根を誅殺する。更に、出雲の神宝については、垂仁二十六年条にも、物部十千根(もののべのとうちね)に、神宝を調査させる話が出てくる。(記事引用先:金谷さんHP)
この話のポイントは「物部と吉備が協力的関係で出雲に影響力を及ぼす」ところと「弟の飯入根(いいいりね)がすんなり従い、それを兄である出雲振根(いずもふるね)が弟を殺すとその弟や子らが、大和に訴え、吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)が派遣され出雲振根を誅殺する。」という部分で物部と吉備 強い関係とともにどうも絆の薄い兄弟関係だなあという点である。
私はこう思う、振根と弟の飯入根とはともに天穂日命の系譜とされるが、弟の方は意宇郷の物部系ではなかったかと。そうすればこの不可解な話も理解できる。
まとめ
私は出雲に進駐した吉備物部がこの意宇郡に拠点を置いたのだ考えている。その証拠といえるかどうか、このエリアには前方後方墳が多く存在するが、吉備に存在する代表的なそれは「湯迫車塚、一丁ぐろ」で共に物部系の色がとても濃い。その地区の出身者として野見宿禰が登場するのであるから、彼が物部であり祭祀を司る部族として埴輪の創始者の名誉を受けたのだと考えている。さて次のログではなぜ前方後方墳が物部なのか?という論証を通じて物部の謎をさらに解き明かして行きたいと思う。